司馬遼太郎 Part6

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この話題の盛り上がりグラフ
2017-03-01 22:18:50 最終更新
1 日本@名無史さん 2016-12-31 11:46:51

司馬遼太郎全集を重箱の隅をつつきつつ読み進めてまいります。

ただいま「国盗り物語」が進行中。

前スレ

司馬遼太郎 Part5 ©2ch.net

hhttp://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1480533004/

4 日本@名無史さん 2016-12-31 11:57:00

>>1

6 日本@名無史さん 2016-12-31 12:09:29

>>1

探しても無かったからどこへ行ったのかと思っていたら、ここにあったのか。

42 日本@名無史さん 2016-12-31 16:18:54

7.天文22年(1553):山口氏謀反

この前年に織田信秀が他界したことにより、うつけの信長では尾張を治められないと見た鳴海城の山口左馬助・九郎二郎父子が今川氏に内通し、信長に反旗を翻した。 山口父子は今川氏の将を尾張に招き入れると、大高・沓掛両城を調略で落とし、笠寺・中村に砦を築いた。

hhttp://emaki.sengoku-jidai.com/picture/okehazama7.gif

この報を受けた信長は、4月17日に那古野城から出陣。赤塚で今川・山口勢と対戦するも引き分けに終わった〔赤塚の戦い〕。

hhttp://emaki.sengoku-jidai.com/picture/okehazama8.gif

65 日本@名無史さん 2016-12-31 22:51:33

★鷲津砦

▽鷲津砦

名古屋市緑区にあった砦。大高城の北東約700mの丘陵上に築かれ、東西25m、南北27mの規模だった。

hhttp://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/wasidu_01.JPG

織田信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信秀に従っていた鳴海城主山口教継が駿河の今川義元に寝返り、義元は大高城を手中にした〔>>42〕。

そこで信長は、鳴海城に対して丹下砦・善照寺砦・中島砦を築き、さらに大高城と鳴海城の間を遮断するために、丸根砦と鷲津砦を築いた。鷲津砦には守将として織田秀敏と飯尾定宗・尚清父子が置かれた。

44 日本@名無史さん 2016-12-31 16:22:50

8.天文23年(1554)正月:水野氏救援

今川氏が知多郡の村木に築城して、信長に与する緒川の水野信元に攻撃を仕掛けてきた。

信長はこれを救援するため、那古野の守備を舅の斉藤道三に要請。20日、援軍の安藤守就の到着を確認後、熱田から知多半島に渡り緒川に着陣。

24日、今川勢の籠る村木砦を攻撃。信長は多くの犠牲者を出しつつも1日で落城させ、那古野に帰還した。

54 日本@名無史さん 2016-12-31 20:37:39

▼桶狭間の戦い布陣

〔今川〕

今川義元:沓掛城→桶狭間山

松平元康:丸根砦→大高城

丸根砦:鵜殿長照

鷲津砦:朝比奈泰朝

鳴海城:岡部元信

75 日本@名無史さん 2017-01-01 01:21:13

★善照寺砦

▽善照寺砦

今川義元との戦いの際に織田信長が鳴海城を囲むように築いた三砦のひとつ。名古屋市緑区鳴海町砦。

山口教継は〔>>65〕、織田信秀の死後、織田氏から離反して今川氏に寝返り、鳴海城を子の山口教吉に守らせ、笠寺に砦を構えて岡部元信〔>>54〕などの駿河勢を引き入れて、自らは中村に立て籠もった。教吉はここで出陣してきた信長と戦い、引き分けている〔>>42〕。

教継は織田方の大高城、沓掛城を調略を用い奪取したが、その後駿河へ呼び寄せられ親子共ども切腹させられた。山口父子の殺害は信長の調略ともされる。

69 日本@名無史さん 2017-01-01 00:44:58

▽武井夕庵

織田信長の右筆・官僚。茶人でもある。諱は助直。

はじめは美濃国の守護土岐氏、次いで美濃斎藤氏の道三、義龍、龍興の三代にわたって右筆として近侍する。弘治元年(1555年)、道三が義龍を廃嫡しようとした際は日根野弘就とともに義龍についた。さらに義龍が弟の孫四郎、喜平次を殺害し、道三に反逆した時もこれに従い、道三と袂を分かった。

永禄10年(1567年)より、斎藤氏を滅ぼした織田信長に仕えて右筆及び側近官僚となり、客の取次や京都の行政官の一員として活動した。また検視、重要時の奉行や使者も務めた。

70 日本@名無史さん 2017-01-01 00:46:35

現在は文禄3年であるから、武井夕庵は斉藤義龍の右筆だな。

112 日本@名無史さん 2017-01-02 05:44:15

>>70

文禄3年なら、武井夕庵は信長の右筆をやっているよ。

現在は永禄3年(1560)です。

84 日本@名無史さん 2017-01-01 15:18:15

▽大高村

現在の名古屋市緑区大高町。

永正年間 (1504年〜1521年) 花井備中守によって築城された。天文・弘治年間 (1532年〜1558年) には水野忠氏父子の居城であった。

永禄2年 (1559年) 織田方の鳴海城主・山口教継が今川方に寝返り大高城を攻略したため〔>>75〕、織田信長は丸根砦と鷲津砦を築き大高城と今川方の連絡を遮断した。

桶狭間合戦の後に廃城となったが元和2年 (1616年) 尾張藩家老・志水氏の舘が設けられた。

94 日本@名無史さん 2017-01-01 17:11:31

〈前スレ〉388 名前:無名草子さん[sage] 投稿日:2016/12/12(月) 15:52:20.57

>いいえ。氏家ト全に対する愛が足りないから間違えるのです。大事なのは愛です。

氏家氏に対する愛ではなくて、竹腰氏に対する愛が足りんわな。

大垣城を初めに築城したのは竹腰氏。竹腰氏が大垣周辺に勢力をもっていたのは簡単に想像できる。

「西美濃三人衆」なんて言葉は、信長の美濃攻略の頃にできた言葉じゃないかな。

こんな言葉に引きづられるから、まだ氏家ト全が大垣にいない頃から、

261 名前:無名草子さん[sage] 投稿日:2016/12/10(土) 21:16:23.48

▽氏家卜全(ぼくぜん)

氏家直元 / 永正9年(1512年) – 元亀2年5月12日(1571年)

最盛期には美濃国の三分の一を領し、三人衆の中では最大の勢力を有していた。

なんてバカなことを小説に書いてしまうんだわな。

114 日本@名無史さん 2017-01-02 05:53:09

>>112

文禄3年だと信長は死んでいるから、武井夕庵は信長の右筆をやれないよ。

119 日本@名無史さん 2017-01-02 06:30:30

▽朝倉義景

越前朝倉氏第11代(最後)の当主。天文2年(1533)- 天正元年(1573)。現在27歳。

天文17年(1548年)3月、父の孝景が死去したため家督を相続して第11代当主となり延景と名乗る。

※朝倉義景 / 浜畑賢吉

131 日本@名無史さん 2017-01-02 09:17:42

▽上泉伊勢守

上泉信綱…上州出身の戦国時代の兵法家。永正5年(1508)- 天正5年(1577)。

132 日本@名無史さん 2017-01-02 09:25:25

▽塚原卜伝

延徳元年 (1489) 、常陸国の鹿島神宮に使える卜部・吉川覚賢(あきかた)の子・朝孝。

吉川朝孝は塚原家の養子となり、元服して塚原新右衛門高幹と名乗ることとなる。養父の安幹は鹿島七流とともに、香取の飯篠長威斎家直の天真正伝香取神道流を学んでおり、これを高幹に教授した。

弘治二年 (1556)、高幹は息子・幹重に家督を譲ると、剃髪出家して『卜伝』と名乗るようになる。

68歳になった卜伝は三度目の旅に出る。この時には、まるで大名のような一団を整えて上洛したと言う。この上洛のおり、卜伝は伊勢の国司・北畠具教、将軍足利義輝などに剣を伝授したとされる。

元亀二年 (1571)、弟子の松岡則方の家にて亡くなった。享年83。

133 日本@名無史さん 2017-01-02 09:27:47

塚原卜伝は、同時代の剣豪・上泉伊勢守と並んで“剣聖”と称されることがある。

しかし、塚原卜伝を“上泉伊勢守の門人”と称しているのは、司馬遼太郎だけである。

135 日本@名無史さん 2017-01-02 09:49:38

★一乗谷

▽朝倉土佐守

朝倉景行…北ノ庄城主。当時の北ノ庄城は、防御力のさほど高くない居館形式の城だったのだろう。

北ノ庄朝倉氏は、朝倉家中における有力一門として軍の中核を担っていた。

朝倉義景は天正元年(1573)に小谷城の浅井氏を救援する為に近江に赴いたものの、前線の砦が陥落したことから撤退を決意し、その撤退戦である刀根坂の合戦で朝倉軍は壊滅してしまう。朝倉景行ももちろんこの軍中にいたが、乱戦の中で討死したとされる。

※朝倉土佐守:神田隆

215 日本@名無史さん 2017-01-03 22:44:40

朝倉土佐守〔>>135〕 4,000

朝倉義景〔>>119〕  1,000

142 日本@名無史さん 2017-01-02 12:10:21

▽松本備前守

松本政信…鹿島神流は飯篠長威斎家直の高弟である松本備前守政信が創始した流派である。

松本備前守政信は、鹿島神宮の祝部(ほふりべ)である。政信は、薙刀、十文字槍、杖、さらに各種の鎌などの武具に熟達しており、師の飯篠長威斎から学んだ天真正伝香取神道流に独自の工夫を加えて、塚原土佐守安幹(塚原ト伝の父)および塚原ト伝に伝授した。

144 日本@名無史さん 2017-01-02 12:24:21

>>133

上泉伊勢守信綱〔>>131〕は、松本備前守政信〔>>142〕に鹿島神流を学び、塚原ト伝高幹〔>>132〕に香取神道流を学んだ。

塚原卜伝を“上泉伊勢守の門人”と称しているのは、司馬遼太郎だけであり、真実は、塚原卜伝が師で上泉伊勢守が門人である。

要するに、逆である。

153 日本@名無史さん 2017-01-02 13:34:59

▽お槇〈M〉

明智光秀の正室は、妻木煕子(ひろこ)が正しい。

明智光秀の前半生については明らかでない点が多く(生年月日ですら諸説がある)、また、前スレ〈915〉で紹介した明智光秀の最初の正室である山岸光信の娘・千草のこともあり、煕子をモデルにした「お槇」を登場させたものと思われる。

※お槇 / 中野良子

159 日本@名無史さん 2017-01-02 15:51:00

ストーリーに矛盾が生じているね。

光秀の叔父・光安は、明智城落城のとき、光秀に光安の「遺児たち」を託し、「遺児たち」は山岸光信〔>>153〕に預けられた。

弥平次光春も光安の遺児であるが、なぜか弥平次光春は天竜寺の禅道に預けられている。

157 日本@名無史さん 2017-01-02 15:28:45

続いて「お槇」の設定について…一族の土岐頼定の娘

▽土岐頼定〈F〉

同姓同名の人物が同時代に存在するが、美濃土岐氏ではなく上総土岐氏。

上総土岐氏は万喜城に拠ったため万喜土岐氏とも呼ばれる。

斎藤道三に領国を追われた土岐宗家の美濃守護・土岐頼芸を江戸崎城の土岐治頼より受け入れた人物として、前スレに書いたかもしれない土岐為頼の父が、土岐頼定である。

名前を借用しただけ、あるいは適当な名前を付けたら、偶然にも上総土岐氏に同名の人物がいたのだろう。頼定とお槇の父子は架空の親子である。

169 日本@名無史さん 2017-01-02 16:46:47

>>157

「お槇(は)、……(略)……美濃にあるときは土岐頼定の姫君として……」という叙述があるから、土岐頼定は美濃土岐氏の設定だね。

163 日本@名無史さん 2017-01-02 16:10:00

「遺児たち」=複数の遺児ではなく、「遺児たち」=弥平次光春とお槇ということで。

お槇と弥平次光春はいちどは山岸光信に預けたが、その後光秀を追いかけてきたので天竜寺の禅道に預けたということで。

>>159-160様、これぐらいで納得していただけましたでしょうか?

先に進みます。

190 日本@名無史さん 2017-01-02 21:38:30

臨済寺は、静岡と大分のが有名だわな。

こりゃもうエロ画像3枚だっぺ?

193 日本@名無史さん 2017-01-02 23:06:21

>>190

AVはやめて洋画のエロいのにしようよ。三浦恵理子以外のAV女優は、どれも全部ダメ。

195 日本@名無史さん 2017-01-02 23:27:38

《二条西洞院の臨済寺》☆☆☆☆

<img src='https://pbs.twimg.com/profile_images/545782788431962112/hn30g-nt.jpeg

301 Moved Permanently

199 日本@名無史さん 2017-01-02 23:53:26

>>195

おまえはオッパイを基準に画像を選んでいるのか?

240 日本@名無史さん 2017-01-04 18:45:57

★森部の戦い

▽永禄4年(1561年)5月14日

森部村(安八町)にて長井利房、日比野清実らを討ち取り勝利する。

※岐阜県安八郡安八町森部…大垣市と羽島市に挟まれている。

hhttp://uub.jp/47/gifu/gifu_map1.png

242 日本@名無史さん 2017-01-04 19:07:18

▽日比野下野守

日比野清実…前スレの〔793〕に名前だけは紹介しておいた。斎藤家の重臣 「斎藤六人衆」 の一人。

永禄年間に日根野弘就〔>>69〕と氏家卜全直元〔>>94〕・安藤守就〔>>44〕・竹腰尚光との4人、あるいはこれに日比野清実・長井衛安〔利房/>>240〕を加えた6人の連署で発給された書状が多く残っている。

255 日本@名無史さん 2017-01-04 23:00:38

▽日根野備中守兄弟

日根野弘就……前スレ〔792-793〕〔>>242〕

永正15年(1518年)- 慶長7年(1602年)。美濃本田城主。備中守。

弘治元年(1555年)10月22日、義龍の命で義龍の異母弟である孫四郎、喜平次兄弟を稲葉山城内で斬殺した。

日根野盛就……前スレ〔795〕

日根野備中守弘就の実弟

243 日本@名無史さん 2017-01-04 19:11:28

▽長井甲斐守

長井利房(衛安)…前スレの〔793〕に名前だけは紹介しておいた。斎藤家の重臣 「斎藤六人衆」 の一人。

246 日本@名無史さん 2017-01-04 19:19:46

斉藤軍には油断があった。敵兵が少ないことを侮っていた。油断を物語るエピソードがある。「近江猿楽座一行の二人の若者の死」である。

二人は長井利房〔>>243〕、日比野清実〔>>242〕の男色の相手であった。そんな若者を合戦に同伴させているくらいだ。美濃勢はこの戦いの勝利を確信していたのであろう。しかし、思いがけない大敗に四名とも討死してしまった。猿楽座の二人は手を取り合って死んでいたという。

この合戦で、信長は墨俣砦を奪い取っている。

249 日本@名無史さん 2017-01-04 22:29:46

>>246

>この合戦で、信長は墨俣砦を奪い取っている。

森部の戦いは、永禄4年(1561年)5月14日の一日で終結した。

信長が墨俣を奪い取った戦いは、5月23日の十四条・軽海の戦いとして、森部の戦いと区別するのが今日一般的である。

250 日本@名無史さん 2017-01-04 22:41:12

▽七月二十一日、一万の大軍を動員し……(略)……非常な勢いで稲葉山城下にせまった。

第一陣 柴田勝家

第二陣 池田信輝(恒興)

第三陣 丹羽長秀

261 日本@名無史さん 2017-01-04 23:28:24

★森部の戦い…………………〔>>240-246〕

★十四条・軽海の戦い………〔>>249〕

★(仮称)長森の戦い………〔>>250-260〕

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元スレ

司馬遼太郎 Part6
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